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偉人伝-頭山満②

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6c33fdb5cc05761d4999d8bd6d434eeb32d10361n_4752068.jpg「頭山満翁を語る」 進藤一馬氏の講演

昭和44年5月


「尾崎行雄記念財団」での講演より


一.国民投票で日本一
頭山翁の一生は波乱万丈で、非常な変化、ユーモアを解される方でした。
明治時代の雑誌で「現代日本一の人物」という国民投票があって、「豪傑」では頭山先生が第一位で、いよいよの場合に同胞、国民のために命をなげうつ人だという信頼から、一浪人でありながら、なんとなく世の中に重きをなしておって、こうした人気があったのだろうと感じています。
中江兆民「武士道を存して全きもの君有るのみ」
大隈重信「頭山という男は、どこがどうと言い表しがたい所に、大きいところがある」
三宅雪嶺「頭山満はいわゆる腹の人である。腹で世に立ち、国家社会に貢献するのであり、
手の人でも口の人でもない。立身や儲けを数の中に入れない…」
頭山翁は大局を見る聡明さがあり、いっさい私欲がなく、万事に誠をもってあたり、毀誉褒貶に頓着せぬ方でした。
「ただ一心の天に通ずるものあれば、布衣といえども、決して王者に劣るものではない」
と言われましたが、これが頭山先生の信念だった。
お屋敷には常に先客万来、翁はだれにも差別なく人様に会われます。
外交官あり、軍人、政治家、学生、商人、芸能人、様々な方が出入りして、翁と対座した人は皆感激をもって満足して帰られる。
いろいろ悩みや迷った人が先生のところに行って話しを聞いて、かつ然と悟るインスピレーションでこれだと感じ取って帰ったといいます。
ぶつかると、短い言葉の中に指針を示されます。
そこに翁の聡明さ、威力、精神力を感ずるのであります。

二.金に無頓着
神仏尊崇の念が極めて深い方でした。
明治神宮には風雨にかかわらず、毎日朝早くからお参りになられます。
実際に「神の姿」を見て拝んでおられました。
一生を浪人として送られた。
金はあるときもあり、ないときは全くない。
金があるときは夕張炭鉱をもっておられて、三井に75万円で売られました。
そのときは借金はみな倍にして返された。とにかく当時の75万円がまたたくまに消えたのです。
ものにひとつも執着をされない。ないときのほうが多いので、財政的には非常に苦労されました。
人には底知れない親切をされる。
大慈、大悲の心、なかなか常人のできることではありません。
また、平気でだまされる人でもあり、そういうことをなんとも考えておられない。
翁のところに行って、書をたくさん揮毫してもらって、帰りにあの近くの骨董品屋に売って、 一杯飲んで帰ったという話もあります。
そういうことがあってもなくても、そういう人にやっぱり揮毫されるのです。
無限に大きい翁を感ずるのです。

三、幼年時代
頭山翁はも安政2年に筑前、いまの福岡黒田藩の百石取りの筒井亀策の三男に生まれ、
親戚の頭山家に養子で行かれ、頭山を名乗られました。
犬養毅、杉浦重剛、小村寿太郎等、同じ年です。
14歳の時に大宰府天満宮をお参りして、天満宮の満の字がいいと、
自分で満と改名されました。
人が他の名前をいっても返事されず、「おれは満だ」といわれたと聞いています。
幼年時代に高場乱の塾に入って勉強されました。
非常に乱暴者が多いところです。
古今の英傑豪傑、そういうものを論評したり、志士仁人のために涙を流すという風でした。
自然にそこから、「後々の玄洋社の同志が生まれるひとつの基礎」があったと思います。
先生は非常に記憶力がよかった。
平野國臣、高山彦九郎、前原一誠先生の詩、歌、手紙を暗記しておられて、
たちどころにずっとおっしゃった。一字一句も間違わない。
志士の人々の名前を全部覚えられていました。

四、自由民権運動思想に共鳴
頭山先生は萩の「前原一誠」を非常に尊敬されていて、気脈を通じていた。
そのため萩の乱で密偵が来て家宅捜査をされます。
そこに「大久保を切れ」と書いた一札があったということで逮捕され、
福岡の獄に入れられました。
まもなく「西郷南州」の「西南の役」が起こったので、萩の獄に移され、
戦争がおわったときに放免されました。
藩閥政治に対する不満は全国的であり、特に福岡の天地は鬱勃としていました。
頭山先生は平尾という福岡郊外で開墾をしていたときに、
大隈さんに爆弾を投じた「来島恒喜」さんが、
大久保利通が東京紀尾井坂で刺客にやられたという報告をもってくるのです。
先生は「それじゃ、この際板垣が立つだろうから、自分はすぐに土佐に行く」と
そのまま土佐に向われたということです。
「板垣退助」にあって、「いよいよ兵をあげられるのではないか」と詰め寄ると、
「いまそうした兵器にかわるには、言論をもってして「自由民権」のこの旗印をもって
藩閥と戦う決意を語り、立憲政治の妙諦をとき、民撰議員の性質を論じ、
国会開設の急務を主張し、国民のそうした力で藩閥を倒さなければならぬ」
という堂々たる理論に大いに感じ、
自由民権は尊王愛国主義と異なるものではないと納得して、
土佐にて演説会にでられたそうです。
後に「植木枝盛」を福岡に連れてきて、県下で演説会を各所で日曜ごとに開き、
大いに自由民権の必要を説いて廻られました。
頭山さんの演説は聞きもんだと演説会はいつも聴衆であふれていたそうです。

五.玄洋社の結社
福岡にはいろいろな団体がありましたが、国会の請願運動をやるにはひとつに纏まろうと
作ったのが玄洋社で、頭山先生は27歳の若さでした。
□皇室を敬戴すべし、□本国を愛すべし、□人民の権利を固守すべしという
憲則三章を自信をもって掲げて実行されました。
玄洋社は終戦まで続きましたが、私が最後の社長になり、
アメリカの解散命令で解散いたしました。
玄洋社は国会開設の請願運度とともに、最初から条約改正を主張していた。
大隈さんが改正しようとした条約案は、日本の裁判所に外国人法官を入れるということで、
それでは治外法権の撤廃はなかなか期待できないような内容でした。
国民は非常な反対、喧喧ごうごうとした反対があったのです。
その反対の先頭に立ったのが玄洋社で、頭山翁は奮闘されたのです。

六.「来島恒喜」のこと
明治22年10月に閣議を終えて外務省の門に入ろうとした「大隈重信」の馬車に
爆弾を投げた来島さんは、その後皇居を一礼して自害します。
誰一人迷惑をかけてはならないと自分1人で決行されたそうで、頭山翁の紹介のルートから爆弾が入手できたと言われています。
この一撃によって大隈条約案は改正できなかったのです。
頭山翁は中止派の大会で広島に居たのですが、 大会を終えて大阪に帰ったところで逮捕されます。
しかし、長く東京を離れていて関係ないということで帰され、福岡で5000人からの会葬者が出席して葬儀をとりおこない、「天下の諤々は君が一撃に如かず」と弔辞で述べています。

七.「金玉均」の上海行をとめる
国会が23年に開設された当時、支那、朝鮮が日本に対していろいろな無礼が多い。
どうしても軍備を拡張し、軍艦を造り、製鋼所を新設して、軍備を整えなくてはならない。
これが日本の急務だということで、議会が解散して、明治25年に選挙騒ぎ。
そのとき松方内閣ですが、頭山先生は選挙に加勢をしてほしいと頼まれます。
松方に会って、「やる以上は徹底的にやらねばならぬ。絶対に強くやれるのか」
と問い質したところ、「たとえ六千万人相手にしてもやります」と決心、誓いを立てた
というので、「それならばやりましょう」と、自由党や改進党を向こうに回してやられた。
これが「選挙干渉事件」として今日もいわれておりますが、本当に日本を立て直すために軍備の充実が必要と大きな信念のもとに協力をされた。
ところがそのあと山県や伊藤の元老からいろいろ言われて、ついに辞表を出して逃げていくというようなことで、とうとう頭山先生はそれ以降はいっさい政党から手をひかれ一生関係されなかった。
よほどこの点を考えられたのたろうと思います。
「自分ではなんの能もないからアジア諸国の謀反者が頼ってきたときの、亡命者の世話係ぐらいやりよった」といっておわれたが、アジアの独立の亡命者は皆頭山先生のところに頼ってきます。
金玉均は、明治17年ごろ朝鮮の事変に破れて日本にきた。
頭山先生は神戸で会い500円を渡して、福岡に戻ってまた金策をされた。
後藤象次郎に「自分の炭鉱を一つなんとか三菱に買ってもらうように話してくれ」と頼んだり、ずいぶん骨をおられた。
しかし、金玉均には中国から政府の刺客がつけてきていて、それらに騙されて仲良くなって
「朝鮮の要人にしてやる」との誘いにのって上海に行き暗殺されてしまいます。
頭山先生は人を見る目に鋭く、「あれと交わってはならぬ」と注意されていました。
「上海行きは危険だから行かないでこの地におれ」と言っておられましたが、とうとう上海に行くことになり、大阪まで行って船がでるのを見送られています。
亡命家の心情に同情してことであろうと思います。

八.「孫文」との交友
頭山翁と孫文との交友はほんとうに深いものです。
孫文を助けて、支那の統一をやらせて、日支が手を携えて、一つの東方民族を白人の横暴から脱出させようという念願であったのです。
孫文は常に翁や「犬養毅」先生の庇護のもとに革命運動をどんどん進めたのであります。
「中国同盟会」の組織準備が出来たのも東京であって、革命主義者の大同団結を申し合わせ、飯田町の富士見楼で孫文先生大歓迎会を開いたときには、千人からの留学生が集まって立錐の余地のない非常な盛会でした。
また、赤坂の「内田良平」先生の自宅で、中国留学生中各省から委員を選んで、同盟会の準備会をやられたときには、あまり大勢の人が入って、内田先生のお屋敷の床が落ちたというような話もあります。
日本において孫文革命の下地がほとんど出来ました。
その後、武昌で第一革命が起こって中華民国政府ができ、元号を中華民国元年というものにしたのですが、このときに頭山先生、犬養先生は上海に渡られた。
その時、福岡の炭鉱をやっておられた安川敬一郎さんに5万円の用立てを頼まれています。
麗しい憂国の士の友情がありました。
このとき頭山翁は南京まで行って、孫文に「この革命の主人公はあなただから、袁世凱と妥協してはいかぬ。袁世凱をこっちに呼んで話を決めて、おもむろに北に行っていいじゃないか」と話されたが、孫文はそれを聞かないで、北に行って袁世凱と妥協して、革命ができそこなってしまいました。
そのため頭山先生が帰国するときには、支那人で送ってきたのは3.4人だっそうで、お付の玄洋社の血気盛んな連中は「支那人は軽薄だ、けしからぬ」と憤慨しました。
甲板に立った翁は「支那人にかわってかもめがおれを見送りしてくれる」と言われ、頭山翁の頭山翁たるところが、そこに見られるのであります。

九.アジア諸国の謀反者の世話係
インドのビハリ・ボーズさんは、大正四年に日本に亡命して来ましたが、日本政府はイギリス政府からいろいろ言われて追放退去命令を出すのです。
(大変窮地に陥って)いろいろな人に相談するがいい知恵が出てこない。
悄然として寺尾亨博士(霊南坂の頭山翁の友人で隣に住まい)のところにおいとまに行ったら、そのまま用意されていた自動車で新宿の中村屋相馬家に連れて行かれてかくまわれたのです。その後ボースさんは帰化して中村屋さんの娘と結婚し、大東亜戦争中はインド独立連盟の総裁として国民軍を率いた活躍された。
ベトナムのコォン・ディ殿下は24歳の皇太子殿下で、独立のために日本に逃げて来ました。
ずいぶん苦労されますが、不運の69年の人生を送られますが、終始、頭山翁と犬養先生が
生活の世話をされました。
また、フィリッピンのアギナルト将軍、リカルテ将軍など反米独立闘争に参画した日本人は、玄洋社のメンバーであり、頭山、犬養翁の命によって非常に努力し、武器を送ったりした。
そうしたアジアの各民族の亡命者を頭山先生はほんとうに心から愛せられたのですが、その因縁は各方面に残っています。頭山翁の恩を忘れないでいる人がいるのです。

十、血重於水、東古訓唇歯相依
昭和18年に日華同盟条約ができたときに、頭山翁が「日華同盟条約締結か!これでなくちゃならぬ。
日支は二にして、しかも一なりじゃ。「血重於水、東古訓唇歯相衣(血は水よりも重し、東古訓唇歯相依る)」と同じことじゃが、そういう考えで進めていれば支那事変などというごたごたなしで済むのじゃった。
蒋介石が、先師孫文の精神がわからぬはずがない。いや彼くらいこれがわかっている者は少ない。
だが、米英依存の夢から抜け出ることができないのが残念だ」といっておられます。
翁のアジア主義は理論ではなくて自然の感情であると思います。
欧米の勢力に虐げられた支那四億の民衆の痛ましい有様を見るとき、亜細亜救済の義憤にもえ、何としてもアジアがしっかりと団結し、強いものにしなくてはならぬ。
そして、この大幸福を支那の4億の民に感じさせねばならぬ。
これが翁の衷心からの気持ちでした。
頭山先生を支那に対して強硬論の主唱者のように想像されるのではないかと思いますが、事実は正反対、支那民衆に同情を有し、翁ほど日支親善、提携論で一貫した人は少ないのであります。
頭山先生は西郷南州翁を非常に尊敬しておられましたが、西郷南州翁は草履ばきで、ステッキ一本持って朝鮮に行って自分が話す、魂を通し真情を吐露したらわかるという、あの南州の気持ちをやはり頭山先生も持っておられたと思うのです。

孫文は大正13年に神戸に来て、頭山翁と会い、大アジア主義の講演をしています。
日露戦争が全アジアの解放を大きく励ましたことわ論じたあとで、アジアの欧米に対する
戦いは、王道文明と覇道文明の戦いであるとその文化についても論じ、ヨーロッパ文明じゃだめだ。この王道文明によって、中国、日本、インド等アジア諸民族が一つの団結の力で欧米列強に拮抗すべきだと力説してのです。
これは頭山翁と一致している。
当時、北京の国会では、旅順、大連の返還を満場で一致している。
一切の不平等条約を撤廃し、中国を植民地的状況から解放することは中国革命の大目標である。孫文は北京入りに先立ってこうした日華問題について頭山翁の同意を得ておきたかったと思われます。
しかし、満州問題について頭山翁ははっきりと満蒙に於ける特殊権益の如きは、
将来貴国の国情が大いに改善せられ、同等他国の侵害を受くる懸念がなくなった場合はもちろん還付すべきであるが、今還付要求に応ずるが如きは、わが国民の大多数が承認しないだろうと語られ、孫文も将来はともかくとして、今の時点において、旅順、大連の回収要求などはしないと言明し、講演では一切ふれなかったのであります。
それから北京に帰ってなくなり、これが孫文との最後となりました。

翁が来島恒喜の指導者であったり、あるいは対露同志会の主唱者であったりするということで、右翼の巨頭であるとか、右翼の源流であるとか、いろいろ世間でいっておりますけれど、ほんとうに私心がなく、私欲なく、心とともに態度も正しく、国家国民のために一命を投げる気概のある愛国者でした。ほんとうの右翼というならば、魂から家を思う人でなければならぬ。
頭山先生こそ、ほんとうに国を思う人であった。ほんとうの勤皇愛国者であったということを いつになっても思うのであります。

進藤一馬氏
明治37年 玄洋社社長を38年間勤めた進藤喜平太の四男、中野正剛の秘書を経て
昭和19年に最後の玄洋社社長 戦後、衆議院議員、福岡市長として活躍。平成4年没