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偉人伝-杉山 茂丸

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sugiyama_shigemaru_l.jpg杉山 茂丸
 杉山 茂丸(すぎやま しげまる、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月19日)は、日本の政治運動家、実業家。明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。
 自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋・松方正義・井上馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。
 実は戦国大名・龍造寺隆信の末裔である。
 長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸、詩人の杉山参緑。戯号として其日庵(そのひあん)。戒名は其日庵隠忠大観居士。

出生から青年期
 福岡藩士・杉山三郎平の長男として、現在の福岡市天神あたりで出生する。明治3年(1870年)ごろ、父の帰農に従って遠賀川河口の芦屋村に移住、士族の一家が営む農業はうまくいかず貧困生活を送る。
 その後筑紫郡山家や朝倉郡夜須村などを転住。父は寺子屋を開き貧困の中で平民に学問を授ける。
 その後、四書五経をもとに明治11年(1878年)敬止義塾を筑前町にひらく。
 民約論や仏蘭西革命史などを読んで政治に目覚め、明治13年(1880年)、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ。この間、山岡鉄舟の門人となり、また後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884年)、熊本の佐々友房から旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した。(杉山茂丸『其日庵叢書第一編』『俗戦国策』『百魔続編』、室井広一『杉山茂丸論ノート』など)

玄洋社時代
 伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、各地を転々としていたが、明治18年(1885年)、熊本県人・八重野範三郎の紹介により同郷の頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。
 頭山とともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。
 明治21年(1888年)九州鉄道を創立。
 玄洋社機関紙『福陵新報』(のち九州日報を経て、福岡日日新聞と合併し、現在の西日本新聞)創刊などにも関わり、結城虎五郎とともに「頭山の二股肱」と呼ばれた。またこの時期、玄洋社員・来島恒喜による大隈重信外相襲撃事件が起こり、多くの玄洋社員とともに杉山も嫌疑をかけられ収監されるという経験をした。(杉山『百魔』、藤本尚則『巨人頭山満翁』など)

香港貿易と不遇の頃
 明治25年(1892年)、第1次松方内閣による流血の選挙干渉事件の際、杉山は頭山の指示のもと、民党圧迫に協力するが、頭山が松方の豹変に激怒して政界との関わりを絶った頃、杉山も玄洋社から離れた。この前後から杉山は香港との間に石炭貿易を始め、何度も現地に渡航している。
 杉山は香港貿易を通じて経済知識を蓄え、同時に西欧列強による中国の経済支配の様相を実見して、国家の経済的自立の重要性に目覚めた。しかし貿易事業そのものは失敗し、杉山は妻子を福岡に残して上京した。この時期、福岡に残された家族が貧窮のどん底にあったことは、後年杉山の長男・夢野久作が書き残している。(室井『杉山茂丸論ノート』、夢野久作『父杉山茂丸を語る』など)

日本興業銀行の設立運動
 明治27年(1894年)、杉山は同郷の先輩である金子堅太郎の知遇を得て、経済政策を語り合うようになった。またこの前後、東京日日新聞主筆の朝比奈知泉と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平と人脈を広げた。杉山は金子と協力して工業資本の供給を行う興業銀行設立運動を始め、朝比奈は金子や杉山の動静を東京日日新聞で報道して世論形成に一役買った。
 杉山は明治30年(1897年)年に初めて渡米し、アメリカの工業事情を視察すると、翌明治31年(1898年)にも渡米して、世界の金融王J・P・モルガンと単独面会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した。
 杉山らの興業銀行設立運動は、伊藤博文総理や井上馨蔵相の理解を得たものの、地租増徴問題をめぐる内閣と議会との混乱の中で握りつぶされる結果となり、隈板内閣を経て第2次山縣内閣によって、明治33年(1900年)に「日本興業銀行法」が成立する。
 しかし、貴族院や国内の銀行家の反対により外資導入は不可とされ、杉山がモルガンとの間に結んだ資本導入は実現しなかった(室井『杉山茂丸論ノート』、杉山『百魔』など)。

台湾統治への関わり
 明治31年(1898年)、現地住民の抵抗により統治が進まなかった台湾に、児玉源太郎が第4代総督として就任し、民政局長には後藤新平が抜擢された(1898年6月20日に民政長官)。
 杉山は児玉らに対し、製糖産業の振興による台湾経済の確立を献策し、自らも製糖会社の設立に関わった。
 また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設などにも関与したと見られ、添田壽一・中川小十郎らを台湾銀行総裁として推薦している(杉山『俗戦国策』など)。また、蓬莱米の普及に尽力した。

政友会創設資金の提供
 伊藤博文が明治33年(1900年)に立憲政友会を結成するに際して、杉山はその創設資金の一部を提供した。杉山は元来政党政治を否定する立場であったが、将来の日露開戦を睨んで、伊藤によって政府の方針を助ける政党が結成されることは必要と考えていた。
 このとき伊藤に提供された十万円の資金の出所は明らかにされていないが、杉山の友人であった小美田隆義や実業家の岡田治衛武が有力視されている。(杉山『俗戦国策』、一又正雄『杉山茂丸』、野田美鴻『杉山茂丸傳』など)

桂太郎、児玉源太郎との盟約
 杉山は暢気倶楽部などを通じて陸軍の児玉源太郎と親しく交際し、対露開戦に向けて努力することを盟約した。のちにこの盟約には、明治34年(1901年)に総理大臣となった桂太郎も加わった。
 桂・児玉・杉山の三者による活動は、対露戦争回避、日露協商を主張する伊藤博文への対処が中心となった。
 明治35年(1902年)1月、伊藤博文がロシアとの協商を目的にペテルブルク滞在中、桂内閣が電撃的に日英同盟を締結したのは、伊藤を「日露戦争の戦死者第一号」にしようという杉山の献策に従った政略であった。
 また、明治36年(1903年)7月、桂内閣を攻撃していた伊藤博文が枢密院議長に親任され政友会総裁を辞任せざるを得なくなったのも、杉山が桂や児玉に伊藤の祭り上げを献策した結果であるという。(杉山『俗戦国策』)
 児玉源太郎との結びつきについては、東京築地本願寺境内に日露戦争戦勝を記念して杉山が児玉に茶釜を贈ったことを記念する「凱旋釜」碑がある。

日露戦争の幕引きと満鉄設立
 明治38年(1905年)、奉天会戦のあと児玉源太郎が密かに帰国して、政府首脳に講和の必要性を説いたのは、杉山が児玉に秘密電報を打電して講和を進めるべき時期であると進言したことによるという。この年の夏、山縣有朋は講和の聖旨を伝達するため、密かに渡満して大山巌以下の満洲軍首脳と会談したが、その際、杉山は一民間人でありながら山縣に随行して満洲へ渡った。
 杉山は奉天で児玉源太郎の宿舎に同宿し、そこで児玉から満洲の地誌などの資料を託され、戦後の満洲経営策を立案するよう依頼された。
 杉山は帰国後、半官半民の合同会社の鉄道会社創設を立案した。この案が児玉によって採用され、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立された。(杉山『俗戦国策』、一又『杉山茂丸』など)

日韓合邦運動
 日露戦争後、日本は韓国の保護国化を進め、伊藤博文を韓国統監として派遣した。杉山は伊藤に、渡韓に際し内田良平を同行するよう薦め、伊藤は内田を統監府嘱託に採用した。内田は韓国において、親日派団体である一進会の李容九や宋秉畯と親交を結び、一進会の日韓合邦運動を支援した。杉山は日本国内にあって、内田からの情報を政府首脳に伝え、また内田や一進会からのさまざまな要請について政府との交渉窓口となった。
 杉山は一進会の懇請により顧問となっていた。一進会が目指したものは日韓が対等の立場で合併する「合邦」であったが、現実には韓国が日本に併合される結果となった。このため大正10年(1921年)、杉山は旧一進会の会員たちから自決を要求された。併合後の朝鮮に対する政府の施政の実情を憂慮した杉山は、大正12年(1923年)に総理大臣に宛てた『建白』を著し、朝鮮の施政改革を強く訴えた。(西尾陽太郎『李容九小伝』など)

郷土開発への意欲
 大正期、杉山は郷里の経済発展に力を注いだ。博多港を築港するための株式会社を設立し、船成金と呼ばれた親友の中村精七郎が資金を提供して博多築港は進められたが、予想外に工事費が高騰し、中村は破産して築港事業は中断に至った。
 また杉山は関門トンネルを民間の力で開鑿しようとして出資者を募り、政府に許可申請まで行ったが、遂に許可は下りず、関門トンネルは後年政府によって築造された。(杉山『百魔続編』、高野孤鹿『大熊浅次郎君追悼録』など)

海外の革命家を支援
 大正3年(1914年)、インド総督暗殺未遂犯のラス・ビハリ・ボースが日本に亡命してきた際、日英同盟をたてに政府は黙殺したが、杉山、頭山らは彼を保護した。
孫文とも交流があった。
出版事業と著述活動
 明治41年(1908年)に森山守次が日本最初の週刊誌『サンデー』を創刊するに際し、杉山はさまざまな支援をした。この週刊誌に杉山は随筆や政談などを執筆した。
 大正6年(1917年)からは門下生が創刊した月刊雑誌「黒白」に舞台を移して代表作『百魔』の連載など、執筆活動を行った。生涯の著作は二十篇を超える。(室井『杉山茂丸論ノート』)

伝統文化への傾倒と庇護
 杉山は義太夫節に関しては玄人はだしであり、明治大正期の義太夫界の大立者であった竹本摂津大掾や竹本大隈太夫らと親しく交際し、それらから聞いた芸の真髄を書き記した『浄瑠璃素人講釈』という著作を遺した。自らも義太夫を語り、伊藤博文にとって死出の旅立ちとなった満州渡航の前には、伊藤の大森恩賜館に招かれて、送別の義太夫を語った。
 杉山の死後には、女義太夫の竹本素女が追悼義太夫会を開催し、『杉山其日庵遺作浄瑠璃集』が編まれた。
日本刀の蒐集鑑定も杉山が傾倒した趣味のひとつで、『刀剣譚』を執筆(『其日庵叢書第一編』に収録)したほか、若干の随想を遺している。晩年の伊藤博文が刀剣を趣味としたのは、杉山の勧めによるものと言われる。
 相撲界に対しても様々な支援を行っている。関東大震災で国技館が焼失した際には再建資金の調達を援助したほか、日本相撲協会の設立や天皇賜杯授与の聴許などの動きに、年寄春日野(のち入間川)を助けて相撲界の振興に力を注いだ。
 政財界人との交際の場であった茶の湯に関しても造詣が深く、「電力の鬼」と呼ばれた松永安佐ヱ門が六十歳を過ぎてから茶の湯に熱中したのは、杉山が茶器を贈ってそのきっかけを作ったものである。(一又『杉山茂丸』、杉山『浄瑠璃素人講釈』、松永安佐ヱ門『茶道三年』など)

医学への貢献、献体
 杉山は医学への関心が強かった。長女瑞枝は東京慈恵会医科大学学長であった金杉英五郎の甥に嫁ぎ、次女たみ子は耳鼻咽喉科医の石井俊次に嫁した。自宅には医務室を設け、数多くの医薬品を備えていたという。実弟龍造寺隆邦が癌腫に倒れたときは、当時の最新医療を種々試みさせ、脳溢血で死去した際は、解剖に付して病因を探らせた。
 杉山は自ら遺言して、死去後は遺体を医学研究のため献体することとした。
 このため、昭和10年(1935年)7月19日の没後、杉山の遺体は東京帝国大学で解剖に付された。門弟星一の岳父で東京帝大教授の小金井良精らが立ち会った。
 杉山の妻幾茂も、夫に従ったのか、死去の際献体した。現在東大医学部には、杉山夫妻の骨格標本が並んで保存されている。(室井『杉山茂丸論ノート』、杉山『百魔』、星新一『祖父小金井良精の記』など)